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再建への道 C 7-1

ターンアラウンド

2003年~2020年➀

バブル崩壊から「失われた10年」、マサルは株式を公開した翌年から業績が低迷し、創業以来初めてリストラを余儀なくされた。営業所の統廃合、技能社員の切り離し、役員体制の縮小――。本当は辞めさせたくない人材も手放さざるを得なかった。社員の賞与や給与は削減され、毎年離職者が出た。

――若き経営者、新しい風

都心の大型ビル竣工が2003(平成15)年に集中し供給過剰となることから、その後の建設市場のさらなる縮小が懸念された「2003年問題」も重なった。同業他社の廃業や身売りは、もはや珍しい話ではない。長く肩を並べてきた会社が、ある日を境に名前を消す。次は自分たちではないか——そうした緊張が、業界全体に張り詰めていた。

2003年問題

2003(平成15)年3月6日に開かれた第156回国会 衆議院 総務委員会では「東京23区において大規模オフィスビルの竣工が集中する為、一時的に需給バランスが崩れ、空室率上昇や賃料下落が起こるのではないか」と審議が行われた。

その年、マサルは大きな転換点を迎える。

2003年6月、苅谷純が代表取締役社長に就任。1987(昭和62)年から会社を率いていた操上弘昌から、次世代へとバトンが渡されたのである。苅谷は、こう振り返る。

私が45歳の時、当時68歳だった操上社長から突然、『俺は引退するから、6月からお前が社長をやれ』と言われました。2003年2月のことでした。うちは親父の苅谷勝の代からずっと、代表取締役会長(苅谷)と代表取締役社長(操上)がふたりで会社を見てきました。ですから社長になってもひとりではないと最初は安心していましたが、操上社長は会長に就任しても取締役は辞めるという。『どういう会社にするか、自分ひとりで考えろ』というスタンスでした

操上は取締役を退いたうえで会長に就任し、のちに相談役となる。経営の実務からは完全に身を引くという意思表示だった。

新社長となる苅谷は2月から6月までの間、マサルをどうするべきなのか、必死に考えた。

操上社長が率いるマサルは、その強いリーダーシップのもと、どちらかと言えばトップダウンで方針が決まることが多かった。事業を存続してゆく為にはリストラを行わざるを得ないという葛藤のなかで苦悩する操上の姿を、苅谷は経営企画室長という側近の立場から見てきた。苅谷は新社長として、自分に操上のようなトップダウン型の経営はできないと考えた。

社員や取引先、得意先、株主の不安を払拭するためには、すぐにでもマサルの業績をV 字回復させる必要があった。それを個人の力ではなく社員全員の力で、団結力を持って実現したいという思いがあった。前社長の強いリーダーシップにもとづく経営手法とは別のアプローチ、苅谷新社長なりのやり方だった。

だが、社長が代わるということは、会社が変わる大きなチャンスでもある。どん底にいる会社を変えるのは、若い社長がうってつけかもしれなかった。操上が社長就任時に新たに定めた社是は守りながら、勇気を持ってそれまでとは真逆の方針で挑み、とにかく業績を回復させて未来のマサルを構築したかった。

社是

苅谷社長が最初に行ったのが、協力会社や社員、顧客から出される要望や不満に直接、耳を傾けることだった。社長に対して何でも言えるボトムアップ型の環境づくりから、ターンアラウンド(事業再生、経営改革)が始まった。

6月に社長に就任した苅谷は、8月には協力会社の事業主と職長を集めた。マサルに対する要望や不満を思う存分吐露してもらった後、工事の現場で生じている無駄について議論を行った。この会合から始まったのが、「無駄をなくす運動」である。

翌9月には、社員や協力会社の関係者など、誰でもマサルの経営に意見が言える規定を制定した。「提案制度」と呼ばれる現在まで続く規定で、いまも社員などから多くの提案が出されている。

10月には、10人以上の技能者を雇用している事業主と面談を行い、マサルへの不満を聞き取った。そしてこの面談を出発点として、「マサルマスター制度」が制定されることになる。

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