無駄をなくす運動
苅谷純は社長就任からの一年、とにかく利益をどう出すかを考えた。1994(平成6)年の株式公開当時、売上から原価を引いたマサルの粗利益率は16%を超えていた。儲けの元ともいえる粗利益率はその翌年から急落し、社長就任当時は10%前後で低迷していた。就任まもなく苅谷は、2004年度・第49期決算で粗利益率を2ポイント上げ、12%にする目標を立てた。
――削るのは、人ではなく「ロス」
バブル崩壊後にマサルも含め多くの企業がリストラを実施したが、業績には結びつかなかった。市場が縮小して受注価格が下がるなか、販管費を下げる方法では利益を改善できない。利益を押し下げている大きな要因は原価だった。施工のための材料費、職方の人件費を含む協力会社への施工代金、足場やゴンドラなどの現場経費など。当時80億円を超えていた原価を抑え、粗利益率を12%に上げるための施策こそ、「無駄をなくす運動」だったのである。
しかし削るべき原価は、人への支出ではなかった。「無駄をなくす運動」には前提があり、それは「協力会社への発注単価を下げない」こと。当時の建設業界では、コスト削減といえば下請単価圧縮が常套手段となりつつあった。当時のマサルも発注価格を下げるため調達課を設置、安い業者へ発注する打開策を取り始めていた。苅谷は社長就任後、仕事が減って廃業の危機に瀕する協力会社の事業主から「かつてマサルと職人は一体だった。いまマサルは遠い存在だ」という言葉を投げかけられた。仲間からの「遠い存在」という言葉を聞いて、苅谷は安い業者への発注を止めさせた。
協力会社は製造業でいう工場と同じであり、同じ企業で働く者と考える——そう社内へ通達した。
では、どう無駄をなくすのか。「無駄をなくす運動」でマサルが現場へ依頼したのは、まず出来高を5%上げる努力をすること。シーリング施工でもともと1日50m作業していたのであれば、52.5mの作業を目指してもらう。その程度の増加なら、意識を変えればすぐに達成可能だった。加えて、材料などのロスを20%減らすこと。マサルから支給する材料を厚さ10mmの仕様に対して12mm分使うようなことをやめ、ぴったり10mm使ってもらう。そのように出来高を5%上げ、材料ロスを20%減らすことで、12%の粗利益率は達成できる試算だった。
「無駄をなくす運動」が始まると、社長、監査役、経営企画室長が毎月3〜5件の現場を巡回し、運動がどう行われているかを確認した。実際、協力会社の無駄をなくそうとする努力は、目を見張るものがあったという。
その結果、第49期の粗利益率は12.18%、目標は達成された。しかもこの期は、2年前の2002年度・第47期と比べ、売上高が20%減少したにもかかわらず、過去10年の最高益となる2億円の経常利益を計上した。
従来、建設業界では売上規模そのものを重視する傾向が強かった。しかし市場縮小時代においては「どれだけ受注したか」ではなく、「どれだけ利益を残せるか」が重要になる。これは単なる数字以上の意味を持っていた。安売り競争に巻き込まれずとも会社を立て直せる可能性を、マサルが証明したのである。
さらに、改革は社内文化に変化をもたらした。利益改善を〝経営陣だけの仕事〟ではなく、〝全社員のテーマ〟として共有する意識が芽生え始めていた。自分たちで会社を良くする感覚が、後のマサルの組織風土にもつながっていく。
逆風のなか、多くの企業が硬直化した時代だった。しかしマサルは、立ち止まってただ耐えるのではなく、しなやかに形を変えながら前へ進もうとしていた。
無駄をなくすとは、単に原価を削ることではない。本当に守るべきものを見極める運動でもあったのである。
「無駄をなくす運動」は、17歳にして、財政難で立ち行かなくなった米沢藩の藩主となり、その生涯を藩の再興に捧げた上杉鷹山の大倹約令にヒントを得たものだった。マサルが掲げたのは、「人の無駄、時間の無駄、物の無駄」をなくす「新三無主義」というスローガンである。各現場では、それぞれの職長が目標とする無駄をなくす方針を壁に貼ったA3用紙に書き出した。現場を巡回するマサルの経営陣は、どんな工夫が行われているかを一目で確認できる。自分たちの工夫を自慢げに話す職方たちと触れ合い、この運動はうまくいく——苅谷はそう確信した。
現場の巡回は「現場監査」として現在まで続いている。