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創業期 C 1-4

マサル工業(株)の誕生③

昭和32年頃➃

創業初期において、マサルの基盤づくりに貢献した面々を紹介したい。
春名滋氏がマサルに在籍したのは1958(昭和33)年3月から翌1959(昭和34年)11月までである。短い期間であったが、春名氏はマサルの発展のうえで非常に重要な役割を果たした。

――意気軒昂な若手社員たち

春名氏は国生祐作氏の友人の子息ということから、国生氏の推薦でマサルに入社することになった。

当時の彼ら若手社員の積極性を伝える逸話が残っている。製薬会社・三共(株)の工場(東京都品川区、清水建設(株)施工)の工事をしたときのことである。この建物はコンクリートの打ち放し仕様で、そのコーキング工事を昭和化工(株)が請けていた。現場を任された春名氏は、これはシリコーン撥水材「エバータイト」をコンクリート打ち放しに施工できるちょうどよいチャンスだと考え、直接三共(株)の営繕課に売り込みに行った。業界の常識からすれば、元請けを飛び越して交渉するというのはたいへん無謀な行動である。これを知って昭和化工(株)側では非常に驚き、彼らを伴って清水建設(株)に陳謝に参上した。そのとき、清水建設(株)の工事主任は、春名氏らの愛社精神に燃えた姿を見て、「マサルはいい社員を持っている。この会社は将来きっと立派に成長するだろう」と語り、無罪放免にしてくれた。

こうした積極果敢な春名氏をはじめとし、社員一人ひとりが前向きに活動する社風が形づくられていった。春名氏は間もなく昭和化工(株)に移籍し、その後、昭和化建(株)を設立したが、以来ずっとマサルの成長ぶりをあたたかく見守りつづけてくれた。

春名 滋氏

もうひとつ、春名氏がマサルに遺した大きな贈り物が、操上弘昌をマサルヘ橋渡ししたことである。

1954(昭和29)年、北海道出身の操上弘昌は上京して専修大学経済学部に入学した。1年生のとき、当時流行していたハワイアンギターのクラブ活動で春名滋氏と出会い、2人は無二の親友となった。

1959(昭和34)年春に卒業する頃、わが国の就職事情はことのほか厳しく、操上は職を求めて北海道に帰る決心をしていた。

「お前、北悔道に本心から帰りたいのか」と尋ねる春名氏に、「できれば東京で思い切り働いてみたいのだが……」と操上は答えた。「それなら、マサルに来たらどうだ。今は零細企業だけれど、住宅公団の仕事を請けて経営は安定している。面白い分野の仕事だから先行きはきっと伸びると思う」

親友に勧められて、早速、丸の内・東京ビルにあるマサルの事務所を訪れた。当時最も近代的なビルとされていた東京ビルに入ると、真っ白な手袋をはめたエレベーターボーイが恭しく最敬礼をして出迎えてくれた。その7階に昭和石油(株)威風堂々と部屋を連ねており、その並びにある昭和化工(株)の部屋の片隅にマサルが事務所を構えていた。このような会社なら安心だと、操上は入社を決心した。

ところが、いざ入社してみると現実は彼の予想と全く隔たっていた。「だまされた!」と言っても、もはや後の祭りである。それなら自分が頑張って理想的な会社にしてみせる、と堅く決意したのだった。

操上弘昌が入社したことで、社内の空気は一変して活気づいた。やがて会社を担うことになる人物の器量というのだろうか、社長の苅谷勝は初対面の瞬間から既に操上の将来を見抜いていたという。1959(昭和34)年春のことである。

入社当時の操上弘昌

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