職方の協力体制
苅谷勝は職方を「下請け」という言葉で呼ぶことを好まなかった。元請け会社、下請け会社といった上下関係はないし、社長だからといって別格ではなく社員も職方もみんな平等だという気持ちを、創立以来、根強く持ち続けてきた。「マサルは“みんなの会社”であり、“みんなで協力する会社”なのだ。だから頑張ろう!」というのが当時の口癖だった。
――マサルの技術を支えた人々
社員たちも社長の気風を受け継いでいた。たとえば、一日の作業が終わると職方たちから電話で報告が入る。このとき社員たちは、「ご苦労さん」というねぎらいの言菓を決して忘れなかった。職方たちはこの一言に、一日の汗がすっとひいて晴れやかな気持ちになったという。社長、社員、職方が、タテもヨコもない、人間どうしの深い絆で結ばれていたのである。
職方の待遇にもその精神が表れていた。社員と分け隔てせず社員待遇で厚生年金や健康保険にも加入させた。報酬に関しては、当初は給料制度であったが、後には独立心を喚起する意味から能率給で支払うようになった。
安全対策や技術指導に細かく心を配り、彼らの税務対策や人集めなどにまで親身に世話をした。その気持ちに応えて職方たちも骨身を惜しまず協力した。そして後にこの人たちが「マサル勝栄会」を組織することになった。
マサル創業期のころのわが国は深刻な不況に陥っており、街には仕事を求める人びとがあふれていた。
人づてに紹介されてたくさんの人がマサルのもとに集まってきた。仕事の内容よりも、とにかく仕事にありつけば「御の字」という厳しい時代だったのである。だいたい油性コーキング材の施工そのものが始まったばかりなのだから、仕事の内容を知らないのも当然だし、ズブの素人ばかりというのも致し方のないことであった。
こうした人たちの中には、40年以上にわたってマサルと深く結びついて活躍した職方がたくさんいる。以下、幾人かの職方とマサルの出会いの逸話から当時を回顧してみたい。
古澤政雄は、1958(昭和33)年、知人からマサル工業という会社が人を募集していると聞いて、当然屋根の下の仕事だろうと独り合点して応募した。
面接に訪れるとその場で採用され、直ちに仕事をする場所に連れて行かれた。日本住宅公団・所沢団地の建設現場であった。この現場を一目見るや彼は腰をぬかした。野丁場は青天井、しかも外壁に高い梯子をかけて作業を行っている。足がすくんだが、「やるしかない」と決心した。就職難のこの時期、どんな仕事でも職に就ければ幸せというものだ。しかも330円という高い日給である。ちなみに当時の日雇い労働者の賃金相場は240円であった。
社長宅に居候した富岡達行の話も印象深い。1958(昭和33)年、当時15歳の富岡は知人に紹介されて、静岡から独り夜行列車に乗って上京した。即時採用になったものの東京には寝泊まりする場所がない。以後2年間、苅谷社長の自宅で世話になった。この間、同じ屋根の下で暮らしながら苅谷とはほとんど顔を合わせることがなかった。苅谷は毎晩営業活動その他で深夜に帰宅し、富岡は早朝の出勤に備えて早寝をしてしまう。両人はまったくのスレ違いの生活だった。
その代わり苅谷夫人が母親代わりに面倒をみてくれた。苅谷夫人の手製の作業服を身につけ、見習いから一つひとつ仕事のやり方を覚えていった。
日給は330円。毎日仕事をすれば1カ月で9,900円になるはずだが、雨天で仕事のできない日もある。食費代・部屋代として6,000円を支払うと、残金は風呂代と夜食のラーメン代で消えてしまった。金銭的に厳しかったが、就職できただけでありがたいと思っていた。真面目に頑張ったかいがあって、2年後に下請けとして独立させてもらい生活が安定した。
PC防水屋として活躍した平田秀夫は、建築技術の進歩に合わせてマサルを支えた。
小倉一也は創業直後から職方として中心的な役割を果たしてきた。1958(昭和33)年、この小倉がいとこの平田をマサルに紹介。以降、マサルと平田の長いつきあいが続くこととなる。初仕事は(株)竹中工務店施工のRC造の桜堤団地(東京都武蔵野市)であった。その後PC(プレキャストコンクリート)住宅の2階建て、多層階と発展したが、平田はその歴史とともに歩んで技能をきわめ、屋根や外壁の防水工事専門家として活躍した。
PC工法
Pre-cast Concrete板工法の略。
現場打ちコンクリート工法に対し、工場製作の鉄筋コンクリートプレキャスト板を耐力壁として用いる工法。板の接合部を構造的に緊結して建物を構築する。柱のない「壁式構造」、ラーメン構造の「架構式構造(RPC)」、あらかじめ内部鉄筋に引張力を加える「プレストレスト構造(SPC)」等がある。同一平面の繰り返し施工に適性があることから、集合住宅等に盛んに採用され発展した。

中高層PC建方風景
渋谷でクリーニング店を経営していた渡辺末弘もまた小倉の親戚である。1960(昭和35)年、小倉が人手不足で困っていたので土曜・日曜にアルバイトとして応援にきた。このとき破格に高い賃金を貰って感激した。これがきっかけで転職してしまった。半年間の見習いの後、独立。妻が地上で釜を焚き夫が屋根の上で作業をする、夫唱婦随のほほえましい情景が現場の雰囲気を和ませた。

社員と職方が一緒に野球チームを編成して楽しんだ
こうして、情熱をもった社員と職方に恵まれ、順調な滑り出しをしているかに見えたマサルだったが、実は設立直後に大きな困難に見舞われていた。
1957(昭和32)年11月30日、設立して日の浅いマサルに青天の霹靂の重大事件がおきた。社長・苅谷勝の急病である。病名は結核性の自然気胸と診断され、翌12月1日から翌年の4月まで目黒区の富田医院に緊急入院し、絶対安静のやむなきに至った。
ちょうど大成建設(株)による大手町ビル(東京都千代田区)の大規模工事がスタートしたばかりの時期であった。当時、社員は宮地と2人だけで、苅谷は自ら現場で陣頭指揮をとっていた。采配を振るうべきトップの長期不在は、マサルの存続をも危ぶむ非常事態である。昭和化工(株)でもことの重大さを受け止め、社員の山本三郎氏を社長代行として出向させた。山本氏の奮闘により大手町ビルの難工事を無事に乗り切り、マサルは危機を脱した。
当時を振り返り苅谷は「山本さんのお陰です」と謝辞を述べ、山本氏は「いやいや、工事が難航して、あまり利益は上げられなかった、悪かったな」と頭をかく。老雄の友情の絆は終生続いた。
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山本三郎氏