売上げ10億円を突破してスタートを切った40年代①
1966(昭和41)年9月、本社を人形町から中央区日本橋蛎殻町に移転した。その理由は、三井霞が関ビル工事による業務拡大で人員が増加したため、面積の拡大を図ったのである。
――本社の移転
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蛎殻町本社和孝第5ビル6階(昭和41.9~45.2)
4年後の1970(昭和45)年3月には、同町で再び本社移転を行った。理由は同じく面積の規模拡大化で、4年足らずでさらに面積の拡大を必要とするほど、会社が成長したことを物語っている。この相次ぐ移転は、社内外にマサルの急速な成長ぶりを改めて実感させるものだった。
移転に伴い、組織も部分的変換が行われた。
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蛎殻町(昭和45.3~47.9)
1972(昭和47)年9月、江東区佐賀町1‐9‐14に自社ビル(鉄骨造3階建て、延べ面積約426㎡)を新築し移転した。用地取得によって銀行や公的資金等からの資金調達を容易にすることが目的のひとつだった。時期的には創立15周年を迎え、業績が順調に伸び、さらに三井霞が関ビル工事で業務内容の飛躍的拡大もあり、自社ビル建設の機は熟していたのである。さらなる飛躍を目指しての自社ビル建設である。

佐賀町本社
本社移転を契機として本格的な高層ビル時代に対応した組織改革が行われた。
9月29日午後2時から新社屋において、創立15周年記念と竣工披露をかねた盛大なパーティが開催された。業界内外の関係者多数が出席し、NHKの声優・真弓田一夫氏の司会で式典が進められた。まず苅谷社長があいさつに立ち、これに対し来賓を代表して国生祐作氏(元昭和化工(株)専務)、和田秀麻呂氏(昭和石油アスファルト(株)社長)、曽我六郎氏(第一勧業銀行馬喰町支店長)等の祝辞があり、渡邊三郎氏(日本シーリング工業会会長)の発声で乾杯、パーティに移った。
会場には松竹女優の中川加奈さんも姿をみせ、なごやかな雰囲気いっぱいのパーティとなった。最後に西一氏(全日本プレハブ建築防水協会会長)の音頭で万歳三唱して、華やかなこの日の幕を閉じた。
土木、建築の近代構造物における防水の役割は、時代の要請と近代建設技術の進歩とともに日を追って重要なものになっている。ことに最近の建築におけるプレハブ工法、超高層建築などの新方式の開花は防水材料とその施工にも一段と大きな刺激を与え、防水業界も新時代に対応した新しい研究と開発が進められている。マサル工業(株)は、1956(昭和31)年9月、苅谷勝社長が個人企業として創業して以来、今日まで防水工事ひと筋に歩み、業界の主要メンバーとして不動の位置を築いている。……この新社屋建設を契機として、さらに発展飛躍を期すべく、これまでのシーリング防水工事、PCプレハブ住宅防水工事を主軸に煙突断熱材、仮枠材などの販売にも力をいれ、70年代の激動する社会の中で一歩ずつ着実な歩みを示している。
当日の「日刊建設工業新聞」
さわやかな初秋の今日この頃、皆様にはお変わりもなくおすこやかにお過ごしのことと存じ深くおよろこび申し上げます。
おかげさまにて当社も今年で創立以来15周年を無事迎えましたことと、又この期に当たり自社社屋を建設いたしましたことを併せご報告できる幸をよろこんでおります。
私が1956(昭和31)年9月個人企業として出発した当時では夢想だにしなかった近代建槃技術の粋を集めた超高層ビルまで出現している今日、これらの重要なる防水関係工事にいささかながらも貢献させて戴けることは、私のこの上なき喜びであり、誇りでもあり、今後も一層防水技術の研鑽に努めて皆さまのご期待に十分添う所存であります。
一言で15年といいましても、その間色々と感慨無量のものがあります。「よくぞここまで歩みきたりしものぞ」がいつわりのない実感であります。 これも偏に皆さまの今日までの変わらざる深きご愛情によるご指導、ご鞭撻の賜と常に肝に銘じご厚情の程を深く感謝しております。これからも皆さま方のご好意におすがりして全力を尽くす覚悟でありますから、今後も相変わらずご引き立て下さるようお願いいたします。
苅谷勝社長のあいさつ
この時期、シーリング材施工分野での業績は右肩上がりの一途をたどっていたものの、未来展望に立った経営の多角化および当座の売上げ伸長のために、新分野開拓を志した。
そのひとつが床工事(P‐タイル工事)である。支払い条件が現金払いであったため資金繰りに大きいメリットがあった。最盛期には年間1億円の売上げを記録したが、業界の競争が激化し、ダンピング競争の状況を呈しはじめたので、短期間で撤退した。
この床工事への参入の経験は現在の床工事を含む多角経営の原点になっており、意義深いものである。

社内運動会
札幌営業所開設
1974(昭和49)年に札幌営業所を開設した。折しも第1次オイルショックの翌年で、わが国は全国的にその余波で騒然としていた。
工事が停滞して困惑していたゼネコンの知人の依頼を受け、現地に営業所を開設し工事に参加することになった。3年後、北海道という特殊な地域的事情と人材不足から撒退のやむなきに至った。