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試練の時代 C 6-1

寒冷前線

1995年~2002年➀

マサルの1990年代を牽引したのは、第2代社長の操上弘昌だった。
第3代社長であり、現・代表取締役会長の苅谷純は、前任の操上社長について振り返る。

――絶頂の先に忍び寄る「日本経済の冬」

とにかくスーパーマンのような方でした。営業を筆頭に、さまざまな仕事をすべて一人でこなしてしまう。強いトップダウンで会社を引っ張っていました

マサルの現・取締役副社長である操上悦郎は、弘昌の長男である。

私が小さい頃、親父はほとんど家にいませんでした。夜も週末も取引先と飲んだり、ゴルフへ行ったりしていた。家では決して器用なタイプではありませんでしたが、シーリングという世界が全く知られていない時代に、苅谷勝と操上弘昌が業界の確立と整備に奔走した。そういう背景もあり仕事に没頭し、のめり込んだのだと思います。

操上弘昌の方針のもと、さらなる事業の多角化が推進された。その中でも特筆すべきは、リニューアル事業の拡大である。建築後20~30年以上を経過した建物の外装を中心としたリニューアル需要をいち早くとらえ、事業化に取り組んだのは最大の功績である。専門技術・知識が必要とされる分野だからこそ、それまでの改修・補修で培った経験が活かされた。

1990年代半ばまで、マサル躍進の時代は続いた。超高層ビルや大型商業施設、公共施設などで高度なシーリング防水工事を手がけ、全国へ営業基盤を広げていった。技能社員制度の導入や技術開発への投資も進み、「成長企業」としての姿を確かなものにした。

そして、念願であった1994(平成6)年の日本証券業協会への店頭登録(株式公開)を迎える。株式を公開したことで、銀行やゼネコンなど取引先からの信用は飛躍的に高まった。会社の資産価値も上がり、マサルブランドの確立に成功したのである。1994年度・第39期のマサルの売上高は129億7900万円、純利益2億9500万円、従業員数は136名。売上、利益、従業員数ともに過去最高水準に達した。

だが、その足元で日本経済はすでに大きく傾き始めていた。1980年代後半、土地と株価の高騰に支えられた「バブル景気」は1991(平成3)年を境に崩壊する。ただ、その影響は建設業界へすぐには現れなかった。大型開発案件の多くは計画から竣工まで数年を要するため、バブル期に受注した案件が1990年代前半まで続いたからである。東京都庁舎、新宿副都心の超高層ビル群、幕張新都心、横浜みなとみらい21など、都市開発はなお活況を呈していた。

それでも、景気の先行きを示す指標は静かに悪化していた。1992(平成4)年には宮澤内閣が大型経済対策を打ち出し、1993(平成5)年にはゼネコン汚職事件が社会問題化。公共事業を支えてきた建設業界の体質が厳しく問われた。

さらに1994年には1ドル=100円を割り込む急激な円高が進行し、輸出企業の業績が悪化。設備投資の抑制は、新規建築計画の縮小へとつながっていった。受注をめぐる競争は激しさを増し、専門工事業者の利益環境は確実に悪化していた。

こうした肌感覚は、統計にも表れている。国土交通省が公表する「建設投資額」(国内の建設活動を出来高ベースで集計した、市場規模を示す指標)は1990年代初頭まで順調に伸び続け、1992年度に過去最高の約84兆円へ達した。だが、そこが頂点だった。以後数年は横ばいで推移し、1997(平成9)年度からは減少の一途をたどっていく。落ち込みは2010(平成22)年度の約42兆円まで続き、ピーク時のほぼ半分の水準にまで縮小することになる。

この時代の変化のなかで、マサルは公開企業として新たな責任を担うことになった。株式公開という晴れの舞台は、マサルにとって大きな飛躍の証であると同時に、試練の幕開けであった。

1994(平成6)年の施工実績

【シーリング工事】東京ガス新宿高層ビル、TBS放送センター、恵比寿ガーデンプレイスA工区・B工区、聖路加国際病院オフィス棟施工、アクトシティ浜松15~2街区・アクトタワー

【リニューアル工事】重要文化財 ニコライ堂保存修理施工実施、東京ダイヤビルヂィング1・2号館、パークシティ新川崎、北千住駅、新宿三井ビル

アクトシティ浜松

ニコライ堂

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