MENU

業務拡大期 C 4-1

次なる飛躍を目指して➀

昭和50年代➀

昭和50年代の暮開けは第1次石油ショック以来の不況が一段と深刻化していた。政府は公共事業や住宅建設等の事業費を大幅に増やした景気対策を打ち出し、赤字国債発行に踏み切った。1977(昭和52)年に回復軌道に乗ったが成長率は高度成長期に比べて半減。産業界は厳しい現実を認識し、省エネ、合理化を進めるために技術革新に取り組み、効率的に成果を上げた。

――産業構造の転換期に対応する

こうしたなかで1978(昭和53)年の日中平和友好条約調印や成田空港開港は、本格的な国際化の到来を示唆する明るい話題であった。

しかし、翌1979(昭和54)年秋に第2次石油ショックが発生。今回は迅速な金融対策によって物価上昇の抑制に成功したが景気は下降に転じ、深く静かに日本経済を揺さぶっていった。1980(昭和55)年3月、突然の日米両国通貨当局の円防衛措置の発表で、円相場は円高・ドル安に向かう。景気は急速に下降に転じ、以後3年にわたる「冬の時代」に苦しめられた。回復の兆しは1983(昭和58)年で、輸出が伸び始め、生産も活気を取り戻した。

50年代は産業構造の転換の節目の時代でもあった。第1次石池ショックを境に重化学工業が行き詰まり、代わりにハイテク武装の組み立て型産業が主流となった。1980(昭和55)年には自動車生産台数は世界第1位、輸出の比率もトップとなる。日米貿易摩擦はこの時点から本格的に激化した。

50年代の建築業界は、40年代に構築された技術によって超高層ビル建設が一層の発展期を迎えたが、同時にこの時代はこれまでの近代的ビル建設の技術面あるいはデザイン面に対する反省の時期でもあった。そうした反省から生まれた等圧工法(オープンジョイント工法)で、1978(昭和53)年に新宿センタービル、翌年に虎ノ門三井ビル等が建設された。また、この時代には低コストなノックダウン方式がデザイン上で好まれ、ガラスカーテンウォールに多く採用されるようになった。これに伴ってシーリング工事の施工法にも少しずつ変化が起きてきた。

超高層時代来る(昭和57年撮影の新宿副都心)

ノックダウンカーテンウォール

アルミカーテンウォールには大きく分けてユニット方式とノックダウン方式がある。

ノックダウン方式とは、工場において必要寸法に加工した部材をばらばらで現場に納入し、その部材を現場で取リ付け、組み上げていく方式である。

ノックダウンカーテンウォール

シーリング材業界はこの50年代も引き続いて新しい材料を次々と世に送り出した。マサルではこれに対応して混練機の開発や施工法の研究、耐久実験などに活発な行動を示し、業界の技術向上に大いに貢献した。1976(昭和51)年、苅谷勝は「東日本シーリング工事業協同組合」の理事に、1980(昭和55)年より理事長に就任して業界の発展に尽力した。

1979(昭和54)年には労働省が技能検定の中に防水施工・シーリング防水技能士を新規に制度化し、国家試験を発足させた。これはシーリング業界の確たる位置付けを認識させるものであった。

また一方では戦後建設された建物の経年変化による老朽化が問題となってきた。建設省は1980(昭和55)年、「総合技術開発プロジェクト」を編成し、大掛かりな実態調査に乗り出した。マサルでもこれに参加し当該分野において大きな働きを成し遂げた。

なお、マサルではリニューアルに対する時代のニーズをいち早く察知し、1979(昭和54)年、リニューアル工事を目的とする(株)マサルエンジニアリングを設立した。またわが国産業界のさかんな海外進出に伴い、マサルでも海外派遣を行い、世界を視野においた活躍を開始した。

昭和50年代のマサルはシーリング工事において確固たる技術力と地位を掌握しつつも、次なる飛躍を目指して模索し始めていた。

マサルの軌跡(HISTORY)一覧へ戻る