業界に先駆けた技術力③
「超高層のあけぼの」とうたわれた三井霞が関ビル(東京都千代田区)は、超高層ビル時代の幕開けの象徴として建築史上に重要な位置を占めている。
――エポックメーキングとなった三井霞が関ビル
昭和30年代後半に計画が開始され、1968(昭和43)年に竣工。鹿島建設(株)と三井建設(株)の共同企業体によって当時の高層ビル建築の最先端技術を結集して建設された。構法・材料の各所に画期的な工夫・技術が駆使されており、今後の超高層ビル建設に関する諸技術の基礎を築いた。
たとえば壁体はメタルカーテンウォールで構成されたが、この壁面材には新しい表面処理が施されていた。この新部材に対してシーリング材は、一部ガラスまわりに1成分形シリコーンが使われたほかは、全面的に2成分形ポリサルファイド「ウエザーバンシーラー」が一貫使用された。当時としてはアメリカから輸入されたこのシーリング材が最も性能的に優れていると評価されていたからである。施工会社は、初の超高層という大規模工事であることから2社が分担して工事を行うことになった。指名されたのは、当時シーリング工事において最高水準の技術力を有すると評価されていたマサルと、成和工業(株)の2社である。工事過程において、マサルは実力の真価を遺憾なく発揮し、信用を高めた。
三井霞が関ビルは建築業界にとってもシーリング業界にとっても大きな歴史的意味を有したわけだが、マサルにおいても技術力の革新と経営の飛躍的発展をもたらした代表的なビルとなった。
年7月撮影)(差し替え)-731x1024.jpg)
建設中の三井霞が関ビル(1967(昭和42)年7月撮影)
三井霞が関ビル
1968(昭和43)年4月12日に東京都千代田区霞が関に開館した霞が関ビルは、わが国初の本格的超高層建築として建築史上重要な意味を有する。1961(昭和36)年に特定街区制度が設けられて高さ制限が撤廃され、超高層建築が可能になった。設計に当たってはオフィスビルとして使いやすさの面から基準層で1,000㎡が決定された後、容積率から階層を決定した。構造的には耐震性や経済性の配慮から柔構造を採用。基準建築概要は以下の通りである。
建築面積 3,561.60㎡
延べ床面積 153,223.69㎡
階 数 地上36階
地下3階
軒 高 地上 147.0m
地下 17.4m
塔屋まで 156.0m
構 造 基礎及び低層部分・鉄筋
コンクリート造
地下1階~地上2階・鉄骨
鉄筋コンクリート造
3階より上層・純鉄骨造
外 装 材 金属カーテンウォール
設 計 者 三井不動産
山下寿郎設計事務所
施 工 者 鹿島建設
三井建設
着 工 1965(昭和40)年3月
竣 工 1968(昭和43)年4月
2成分形ポリサルファイドシーリング材は、当初アメリカから輸入された時点では従来にないジョイントムーブメントに対する耐久性を信頼され、三井霞が関ビル建設当時においては最高の性能をもつ材料とされていた。
施工もようやく馴れ順調に進んでいたが、施工途中からメーカー側の事情で、輸入品が国産品に切り替わることになった。
それからが苦難の始まりである。まずはスランプ(だれ)による仕上げ面のクレーム、手直しによる工程の遅れ、再施工の品質管理、コストの問題等である。
完工間近になり自主検査の段階でいろいろな実態がわかりはじめた。シーリング材の性能のほかに、ジョイントの構造についても問題点があった。雨仕舞いがうまく納まらずトラブルが発生するのである。
マサルは意を決してゼネコンに対してトラブル発生の現状と推定される原因を公にし、改善策を協力して再検討することを願いでた。
目地設計などに関しては、シーリング材の許容伸縮率等の性能を考えた目地設計、排水機構、施工法等についての問題点があった。完璧な工事をするためには、施工者側の意見も参考にしてもらいたいという要望である。それ以降の現場につなげる意味を含め、その行動はマサルにとって大切なことであった。
防水施工業者がこうした構造分野にまでに口をさしはさむことは、当時の業界常識では非常に勇気のいる行為であった。ところが当時のゼネコンの担当者は旧弊にとらわれない進取の精神に満ちた人びとであったので、積極的に広く意見を取り入れようとする機運が高まり、以後マサルは設計段階から仕口(部材の取合い)に関するディテール検討に参加していくことになる。
振り返ってみると、このときのマサルの果敢な行動は、マサルのみならずシーリング業界全体の地位を向上させる大きなきっかけとなったのである。
.jpg)
排水経路図(矢印は雨水の流れを示す)