業界に先駆けた技術力④
創業10年にしていよいよ大きく羽ばたこうとするこの時期、三井霞が関ビルの工事への参画は、マサルの企業体質に有形無形にわたる多くの有為な影響をもたらした。そのひとつが施工管理方法を修得したことである。
――施工管理方法の修得と当時の労働環境
たとえば、2成分形ポリサルファイド「ウエザーバンシーラー」はいったん混練すると急速に硬化してしまうので、作業の直前に混練しなければならない。電気ドリルや手練りで行う混練はたいへん苦しい作業だった。しかも混練が不完全であると性能が発揮されない。この工程において、ゼネコンとサッシ業者の監督が2人で時計を手に、規定どおりの混練時間を測定した。と同時に、目地幅のチェックやその他あらゆる作業工程を記録していた。
このようにゼネコン側が綿密に工程管理に取り組んだ理由は、初めての超高層ビル工事であるため、設計どおりに施工し、その記録を正確に残して今後の参考資料にしたいということにあった。マサルはこうした施工管理方法に学ぶところが非常に多く、正式な記録方法をはじめ仕様書の書き方等々、今後の企業運営に役立つ基礎事項をしっかりと身につけた。
工事量の拡大化に伴う人的規模拡大についても触れておきたい。
三井霞が関ビルはマサルにとっては画期的な大規模な受注だった。工事が増えれば当然人員を増加しなければならない。三井霞が関ビル工事に投入した人員は1日当たり16名と記録されている。
なお昭和40年代は、三井霞が関ビル以後、新宿界隈のオフィスビル工事で工事量が拡大し、年々、人員を増強した。40年代を通してみると、社員数は12名から29名に、職方数は50名から140名に増加した。
しかし、昭和40~50年代の高度成長に伴う建築工事の活況はマサルのこうした人員補充も焼け石に水で、社員も職方も人手不足に追われて精一杯の労働を余儀なくされた。
当時の状況を語るエピソードとして、1974(昭和49)年竣工のKDDビル(東京都新宿区)工事がある。竣工間際は梅雨期であったため工期が遅れ、昼夜兼行の突貰工事が行われた。徹夜が2週間も続き、高速道路10号線下の飯場で交替で仮眠をとった。真夜中のビルの壁面でゴンドラ作業を行う作業員の明かりがまるでホタルが飛んでいるように見えたそうである。人手不足は作業員だけでなく監督する社員も同様であった。同時期に進行していたNHK放送センター(東京都渋谷区)や東邦生命本社ビル(同渋谷区)、および第一勧業銀行事務センタービル(同渋谷区)等の現場を掛け持ちで飛び回った。
しかし、こうした厳しい労働環境も時代とともに解消に向かい、1981(昭和56)年の日比谷国際ビル(東京都千代田区)の工事以後、建設業界は新しい時代に対応した労働条件に基づく工程管理が行われるようになった。

KDDビル