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発展期 C 3-5

高層ビル防水工事を担った先進性①

昭和40年代⑤

シーリング業界において、売上高、施工技術両面ともに揺るぎない地位を確立したマサルは、既にこの時代までに数多くの施工技術や工具を開発していた。その一つひとつをみると、現場工事を合理的に効率よく進行させ、しかも技術的に完璧に仕上げようとする努力の積み重ねから生まれたものであった。また、シーリング材や部材の開発期にあって、次々に登場する新材料に対する施工法の開発やトラブル解決への努力のあとでもあった。

――施工技術と工具の開発

実例を挙げると、まず「自動ガン」の開発が行われた。混練されたシーリング材は非常に粘性が高い。目地部にムラや隙間なく充填するには、人力ではたいへんな労力と技術を要した。特に当時の2成分形ポリサルファイドは温度の影響を受けやすく、冬場は粘性が高まり、作業に困難をきたした。

1972(昭和47)年、マサルは(株)菅野製作所の協力を得て機械化を研究。小型コンプレッサーを用い、空気圧で材料を吐出する自動ガンを考案した。しかし現在では、材料そのものが扱いやすく改良されており、自動ガンを使用する必要はなくなっている。

自動ガン

1963(昭和38)年に2成分形ポリサルファイドの国内生産が開始され、使用実績が急伸した。この材料は硬化が早く、作業の直前に混練しなければならない。しかも粘性が高く、手練りにおいては非常に労力を要した。

マサルでは作業効率の阻害要因を解決するため、ミキスタ工業(株)の協力を得て機械化に着手した。ミキスタ工業(株)では1960(昭和35)年の開発当初は化学肥料やエポキシ樹脂用の混練機を製作していたが、これを改良し、より粘性の高い材料をも混練できるようにした。その後改良を重ね、1971(昭和46)年には「ハンド式混練機」、1977(昭和52)年には「2成分形シーリング材用混練機(A型ミキスタ)」と「自動反転式真空脱泡型混練機(250型ミキスタ)」を誕生させ、業界で広く使われることとなった。このあと、どこの現場でも手軽に使用可能な軽量化に向け両社で協力して取り組み、1989(平成元)年に「軽量型ミキスタ」が発売された。

混練機「A型ミキスタ」

真空脱泡型混練機「250型ミキスタ」

真空脱泡式ミキスタ

ミキスタ工業(株)向井 啓社長

その後、マサルはシーリング材の混練と吐出が一連で行える「パイレス」を導入する。

1963(昭和38)年に開発した2成分形シーリング材混練機「ミキスタ」は開放型であったため、混練中の空気の巻き込みは避けられなかった。

マサルはこの問題を解決すると同時に、混練不良の防止や省力化を図るために、1970(昭和45)年、米国から自動計量吐出型混練機「パイレス」を輸入した。大量の材料を計量して密閉状態で混練することができる機械である。

パイレス

導入決定に際して、既に「パイレス」を導入し稼働していた冷凍ボックス工場及び自動車工場の稼働状態を見学して性能を確認した結果、建築用シーリング材の混練においても正確さと省力化に威力を発揮するものであると結論し、鹿島建設(株)の応援を得て、一式約1,000万円の高額投資を行い輸入に踏み切った。京王プラザホテル(1971(昭和46)年・東京都新宿区)の施工現場で初使用したところ、予想どおり工事のスピードアップとともにミキシング不良も解消し、工事能率に大きく貢献した。

次いで「パイレス」は1972(昭和47)年竣工の大石寺正本堂工事で威力を発揮した。アルミキャスト屋根瓦に大量のシーリング材を使用するため「パイレス」を稼働させた。ちなみにこの工事では、ウィンチを使って地上での混練場所から屋根の施工場所へ荷揚げするという大掛かりな方法がとられた。

ハイゼロミニ

(廃棄物ゼロ小型機)

2成分形シーリング材の主剤(18ℓ)と硬化剤を押し出し、ノズルに内蔵したミキサーのみで混練できる。さらに、施工目地に直接充填を可能とした。このシステムは現場施工として、画期的なものである。また、施工時間の短縮、主剤の缶を再利用するため、産業廃棄物を減少することができる。

ハイゼロミニ

大石寺正本堂工事

1972(昭和47)年竣工の日蓮正宗大石寺正本堂の屋根工事に派遣されたのは古澤班である。

大石寺は静岡県富士宮市にあり、サン・ピエトロ寺院もしのぐ世界一の宗教建築である。どこからでも本尊を礼拝できるように半剛性吊屋根構造で造られ、長径110m、短径85.5mの長円形の屋根の下には柱が1本もない。さらに中空三角断面のPSコンクリート梁など、巨大空間を支える各種の技術が随所に駆使された。

その急勾配の屋根の工事は命綱にすがっての難工事となった。金属パネルの屋根部材のジョイント部分を内側と外側の両面から防水工事を施した。材料はウィンチを使用して荷揚げするという大掛かりな工事であった。作業員は常時30人を超え、1年半の長期にわたる工事中、寝起きを共にして頑張った。

真夏にさしかかると屋根のパネルの温度は摂氏80度にまで上昇し、触れば火傷をする。底部に溜まった雨水が湯気を上げて蒸発していた。炎天下での作業は不可能である。日の出前に宿舎を出て、明るくなるのを待って仕事を始め、昼前には引き揚げざるを得な

かった。

それから約20年たった1990(平成2)年、補修工事が行われ、今回は富岡が派遣されて、再び間きしに勝る苦労を味わった。

大石寺正本堂

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