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躍進期 C 2-1

油性コーキング材から弾性シーリング材へ①

昭和30年代➀

昭和30年代の経済は3回にわたりエネルギーを爆発させ、怒涛のごとき勢いで急成長した。経済史上にも珍しい活力に満ちた時代であった。技術革新と消費革命が進展するなかで投資ブームは一段と活発化し、1960(昭和35)年には貿易自由化計画発表や国民所得倍増計画決定等、経済成長は国家目的にまで高められた。そして1964(昭和39)年の東京オリンピックに向けての公共投資が一層景気を高揚させた。

――施工方法の模索と創意工夫

この時期の高度成長の原動力は技術革新であった。戦中戦後の世界の技術水準からの立ち遅れを取り戻そうと、急速に新しい技術の導入が進められた。なかでも素材革命といえる合成繊維、合成樹脂、石油化学製品などが30年代に入って急速に発展し、また1959(昭和34)年には大形H鋼の生産が始まった。

建築業界でも急速な技術革新が起きた。大形H鋼の生産によって高層建築物への基盤技術が整い、1962(昭和37)年からはカーテンウォール工法の研究が本格的に開始された。1964(昭和39)年には高さ制限が撤廃され、いよいよ高層ビル時代が目前に開けた。シーリング防水業界ではこうした建築工法への対応が図られ、油性コーキング材からムーブメントに追従する弾性シーリング材の時代へと移行していった。

この時代、マサルは順調な右肩上がりの成長を遂げた。油性コーキング材から弾性シーリング材へと移り変わる時代の変化に伴って新材料や新工法に対する施工技術を他社に先駆けて開発し、業界のパイオニアとしての位置づけを確立した。そして昭和40年代初頭の三井霞が関ビル工事に向けての大プロジェクトに参入する実力を培っていった。

昭和30年代は油性コーキング材の全盛期だった。

わが国への本格的導入は1952(昭和27)年、(株)エービーシー商会がアメリカから「バルカテックス」を輸入したことに始まる。これが1954(昭和29年)に神奈川県立図書館・音楽堂と東急文化会館に使用された。翌1955(昭和30)年に昭和化工(株)が「エバーシール」を製造し国産化に成功した。これに引き続いて翌1956(昭和31)年に日本添加剤工業(株)の「ファインコーク」、またその翌年の1957(昭和32)年にも(株)エービーシー商会の「ABCコーキング」が加わり、市場が形成されるようになった。

油性コーキング材の建築物への採用の過程は、まず日本住宅公団が1955(昭和30)年の発足後間もなく現場打ちコンクリート住宅のサッシまわりや壁のジョイントの防水工事に導入した。

やがて団地建設にPC工法が導入されると、油性コーキング材の使用も大幅に増大した。同様に一般建築物においても、ボード類やPC板の採用増加とともに安易に使用されるようになった。しかし、30年代後半の弾性シーリング材の台頭により、その時代的使命を終えた。

神奈川県立図書館

バルカテックスを初使用

神奈川県立図書館・音楽堂

横浜市西区紅葉ケ丘に1954(昭和29)年竣工。横浜港を見下ろす丘陵地の斜面を巧みに利用して、機能の異なる2つの建物を配置。音楽堂の理想的な音響効果の創造や、図書館の光や視線をコントロールするホローブロックの壁などで注目を浴びた。また、カーテンウォール工法のさきがけとして建築史上に名を残している。

東急文化会館

東急文化会館

東京都渋谷区に1956(昭和31)年開館。地下1階、地上8階。渋谷駅から100mのプリッジで結ばれており、天文博物館やプラネタリウム、4つの映画館などが入り、新しい時代を象徴するものであった。

マサルはいかにして、上市されたばかりの「エバーシール」の施工技能を習得したのか? 新しい材料が輸入あるいは開発されたとき、その施工方法はすべて施工業者に委ねられる。施工業者は、施工する段階で研究を積み重ね、ノウハウを開発していく。マサルもまた、新材料が開発されるたびに施工方法を模索し、作業効率を上げる努力を続けてきた。これを実現させたのは現場の職方たちの地道な創意工夫にほかならない。

たとえば目地に油性コーキング材を打ち込む作業で職方たちは独自のノズルを創案した。当時はマスキングテープがなかったため、周囲にはみ出して汚染しないように細心の注意を払って作業した。彼らは汚染を防止すると同時に材料を無駄にしないために、ノズルに電気の配管材を取り付け、ヤスリで斜めに削るなどして目地幅と一致させた。さらにその先端にビニールホースを取り付けることによって外装にキズもつけず作業効率が一段とアップした。

仕上げ用のヘラにも工夫を施した。マサルでは創業当初から、簡単に削れて自由に細工ができるので竹材のヘラを使っていた。職方たちの道具箱には現場の目地幅に合わせた竹ベラが工事歴を重ねるにつれてどんどん増えていった。また何かに役立ちそうなものはなんでも道具箱に入れていた。そうしたことから「マサルの職方は道具だてが揃っている」と評判になった。その後、他社では洋食ナイフを使用していたが、マサルではパレットナイフが軽くて柔軟性もあることに目をつけ、加工改良して用いるようになった。

こうした諸々の工夫・細工は一見単なる“生活の知恵”的発想に過ぎないようにみえるが、自ら進んで工夫しよう、合理性を追求しようという熱意から生まれた発想である。それがのちに“名人芸”と評価されたマサルの技術力の原点であった。

工夫した竹ベラ

工夫したノズル

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