油性コーキング材から弾性シーリング材へ④
昭和30年代の好景気の波は各企業の強気の投資や本社ビル建設あるいは自治体の施設建設等を加速させ、また東京オリンピックに向けての建設ラッシュも加わって、首都圏の姿は大きく変わっていった。この大きなうねりのなかでマサルは防水工事業の基盤を力強く築いていった。
――丸の内オフィス街の再開発
なかでも強く記憶されるものに、三菱地所(株)による東京駅前の丸の内第1次再開発がある。30年代初頭、明治時代に建設された赤レンガ造りのオフィス街が再開発の名のもとに現代的なオフィスビル街に生まれ変わった。歴史に残る大々的な工事であった。マサルは油性コーキング材による防水工事を請け負った。
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丸の内の赤レンガ街
丸の内オフィス街
江戸の大名小路跡に、1890(明治23)年、三菱の岩崎彌之助が東京市区政計画のひとつとして約8万5,000坪の軍用地を払い下げてもらい開発を始めた。1894(明治27)年の東京府庁舎に始まり、次々にオフィスビルが建てられ、1914(大正3)年には東京駅が完成し、三菱赤レンガ街と呼ばれた。その後丸ビル(丸の内ビルディング)などの高層ビルが出現し、丸の内オフィス街の一応の完成をみた。昭和30年代の丸の内再開発により、ほとんどの赤レンガ建てが消滅した。
1958(昭和33)年竣工の大手町ビル(東京都千代田区)は工事段階では第3丸ビルと仮称された超大型ビルで、3工区に分かれ、面積規模からみても最大級の工事であった。この防水工事を昭和化工(株)が受注し、マサルが施工を受け持った。前に述べたように、ちょうどこのとき(1957(昭和32)年暮れから1958(昭和33)年春まで)社長の苅谷勝が闘病中であったため山本三郎氏が社長代行を務め、総勢二十数名を率いて陣頭指揮をとった。
このビルの外壁の窓枠まわりは御影石の小たたき仕上げであった。マサルは窓枠まわりの目地は油性コーキング材で、タイル目地は「エバータイト」で施工したが、予想もしなかったトラブルに見舞われた。当時は養生テープ(マスキングテープ)がまだ開発されていなかったため、目地周辺部がコーキング材で汚れてしまったのである。これでは特に厳しい基準がある三菱地所(株)の検査は通過しない。小たたき仕上げの凸凹面に入り込んだ汚れをサンドペーパーでこすり取る修正作業で、工期も経費面も予想外に超過してしまった。工法の確立していない初期段階においてはしばしばこうした苦い局面に遭遇した。
同じく東京駅丸の内側に、1959(昭和34)年、わが国初の大々的な地下駐車場が完成した。丸ビル・新丸ビルの間の広場いっぱいに繰り広げられた大建設工事は、まさに新しい時代の到来を象徴していた。マサルはコンクリートの打ち継ぎ目地を「フジシール」によって防水する工事を大成建設(株)から昭和化工(株)を通して請け負った。このときの大がかりな防水工事は、今後技術の幅をどんどん拡大しようとするマサルにとって非常に貴重な体験となった。社長の苅谷をはじめ社員も職方も一丸となって深夜まで働いた。このときの工事を振り返り春名氏は、「高度成長期には、それが当然のことだと精一杯頑張りつづけたものだった」と語っている。
また、これらの工事現場で共に働いていたゼネコン各社の人びとは、最初のうちは吹き付け工事やコーキング工事をしているマサルの社員や職方たちに対してさして関心を示していなかった。しかし、長期にわたる工事期間中にマサルの熱心な仕事ぶりを高く評価するようになり、だんだんと親交が深まっていった。やがてオフィスビルが盛んに建設される時代になり、そうした人たちが現場を担当すると、「安心して工事を任せられるから、防水工事はぜひマサルに頼みたい」と必ず指名してくれた。そうした面からいっても、このころの工事が将来の事業拡大の重要な礎を築いたのである。

大手町ビル