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躍進期 C 2-5

油性コーキング材から弾性シーリング材へ⑤

昭和30年代⑤

1958(昭和33)年に完工した東京タワー(日本電波塔、東京都港区)は、わが国が高さで世界一を勝ち取った333mの鉄骨タワーである。都内の全民放局のテレビ電波の発信塔と同時に展望台としての機能ももつ。当時東京都内には高層建築はまったくなく、展望台建造物のさきがけとなった。

――ランドマークから大規模施設まで

(株)竹中工務店が施工したこの建設工事に、マサルは玉木・富岡らを派遣して、地上120mの展望台の屋根鉄板の継ぎ手(こはぜ継ぎ)と屋根の四隅の先端に設置された照明器具の付け根部分等の防水工事を受け持った。安全帯もヘルメットもない時代である。体にロープを縛りつけ、這うようにして工事を行った。高所は体が飛ばされそうに強風が吹き荒れており、さすがの剛の者も目がくらむようだったという。また、地上120mまで重い材料を担いで外梯子を一段一段登ったのも、つらく、かつ怖かった思い出である。

東京タワー展望台

この時代、マサルが参加した工事は首都圏に止まらなかった。1958(昭和33)年、北海道の本州製紙(株)の釧路工場建設に際し、昭和化工(株)の依頼を受けたマサルは春名氏を派遣し、現地のムネカタ工務店の協力を得て防水工事を行った。

この建物はコンクリートの基礎の上に、外壁はブロック積み、木製サッシ、屋根材は鉄板仕上げという仕様であった。マサルはコンクリートブロックおよび窓枠まわりの防水工事を行い、コンクリートブロックは全面に「エバータイト」を吹き付け、サッシまわりは油性コーキング材で施工した。膨大な仕事量となったが、わずか入社3カ月目の春名氏がマサルの代表者として工事の采配を一切任され、八面六臂の奮闘をした。このように初期のマサルでは、手の足りないこともあって、入社早々から一人前として扱われたのである。

1960(昭和35)年竣工したメタルカーテンウォール工法の三井日比谷ビル(東京都千代田区)をもって油性コーキング材による大型ビルの防水工事は終わりを告げた。その意味でこのビルは油性コーキング材から弾性シーリング材へと防水工事の時代を画す記念のビルとなった。

時を経て1989(平成元)年、リニューアルの時期を迎え、マサルが改修工事を受注した。このとき工事を担当した施工員は建設当時の堅実な工事の跡に接して感嘆した。

三井日比谷ビル

太平洋戦争中に空襲で焼失した明治宮殿に代わる皇居新宮殿の造営工事が1964(昭和39)年から始まり1968(昭和43)年に落成した。国を挙げての大規模工事で、当時日本で求め得る最高の素材や工法を結集させ、近代技術と伝統建築の集大成ともいえるものであった。

マサルはこの工事に参加し、大広間の躯体とサッシの取り合い部分をはじめ各所の防水工事を2成分形ポリサルファイドシーリング材「ウエザーバーンシーラー」で施工した。

その後も皇居の工事はたびたび依頼された。たとえば長和殿のベランダは正月2日に天皇一家が国民の祝福を受ける有名な場所である。ところが1969(昭和44)年の参賀中にゴムパチンコによる投石事件が起きたために、急遽、多層合わせガラス(防弾ガラス)で囲われることになった。マサルはその防弾ガラスまわりとガラスのつき付け部分を1成分形シリコーンシーリング材で施工した。

皇居の工事は、その環境の特殊性から関係する企業および施工員には特に優秀な技術力が要求され、詳しい身上調査が行われた。出入りに際しては身分証明書などを厳しくチェックされた。

皇居新宮殿

皇居新宮殿

地上 2階

地下 1階

延べ床面積 2万300㎡

総工費 133億7,500万円

1963(昭和38)年には日比谷に日本生命日比谷ビル(東京都千代田区)が完成した。総工費40億円をかけた超豪華な日本生命保険相互会社の自社ビルで、業務スペースのほか日生劇場や国際会議場などを含んだ複合ビルとなっている。外観はルネッサンス風の石造。劇場内部はガラスモザイクの壁、アコヤ貝で覆われた天井など、当時の職人の最高技術が結集されて作られた。マサルでも扇原修亨らを派遣して2成分形ポリサルファイドによるシーリング工事を行い、優れた技術力を発揮した。

日生劇場

このほか昭和30年代は、羽田空港の管制塔(東京都大田区)、国立屋内総合体育館(同渋谷区)、NHK放送センター(第1期工事・同渋谷区)など、1964(昭和39)年の東京オリンピック開催に向けて建設ラッシュが続いた首都圏で、多くの代表的な建物の建設に携わった。

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